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清書まであと二~三回状態での公開です。清書では幾分変更をするかもしれません。


6章・貧困の中で科学と学問を問う:Karl Marx (1818-1883)
-Nothing human is alien to me.

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①第二部全体の目次と表紙
②本文→このページ第一節◇4~◇6の前半→◇1~◇3のページ
③参考・脚注

 

 

第1節・ (My) first meeting persons who interested me (in a book or something.)前頁の続き
    →(私に感銘を与えた人達との出会い)

 

 

 



《◇-4:マルクスとの出会い》

 
《◇-4:マルクスとの出会い》。

 
 さて、では何故、頭を絞(しぼ)っているときにマルクスを思いついたのか。遡(さかのぼ)れば、マルクスの本を初めて読んだのは18歳のときである。その間の経緯を記すために、私の勉強歴を振り返ることにする。

 (尚、この私の勉強歴については詳細は巻末の【付録―2】・エッセイ『学校』に記している。)


 小学校の頃、私の家での勉強時間は皆無である。本当に無である。成績は悪くはなかった。時代のせいであろう。勿論良くあるはずはない。中学校は良くなかった。特に中学校2年の頃は悪かった。田舎の中学校で塾にもほとんどの人が行っていないときですら、200人中100番台のときすらあった。おまけに、授業態度を含む学校生活は成績以上に良くなかった。


 当時、最も問題生徒と見られていた生徒の大半が私の友達であった。嘘(うそ)かどうか知らないが、私もその一人と見ていた先生もいた。ある先生より、直(じか)に言われたことがあるので、嘘かどうかは余分かもしれない。


 ただし、小学校・中学校のときは外で遊びまくっていたが、小学校時代の重要な教育は、集団での子供だけでの、外での遊びの中にあるとも思う。居直りであろうか。中学校時代は家で勉強をほとんどせず、学校でも授業に専念しないと成績は下がるという当たり前のことを知った、という勉強をした{勿論屁理屈(くへりつ)である}。


 しかし、中学3年で少し勉強をし、地元の高校に何とか進学することができた。尤(もっと)もこの年は合格者180人くらいに対して不合格者は確か1名くらいと思う。運も良かった。


 高校進学後は、柔道部を辞めてから、勉強に専念した高校1年の後半と高校2年の前半のみ成績はまずまず良かった。授業料が安くかつ地元の大学がよかったため、岡大理学部数学科志望であったが、高校2年の担任がこのままいけば大丈夫と言っていたため希望上の必要範囲は満たしていた。

 


 しかし、その後は(同好会)友の会や部落問題研究部の活動でいろいろな学校を飛び回ったり、いろんな集会に参加したりするなど忙しかったため再度成績も下がり、物理や化学などはギリシア語を聞いているが如(ごと)くさっぱり分からない日々が続く。だから英語で「It's all Greek to me」の日本語訳は「ちんぷんかんぷん」と辞書に記してある。試験も極端に悪くなる。高校3年生になっても、生徒会や部落研などで、夜8時頃家にしょっちゅう帰っていたのだから。


 だが、今考えると受験勉強を中断したというだけで、本当の意味での勉強はしていた。すなわち、同和地域の子供会に参加したり、各地の部落研集会に参加したりして、いろいろな討論をし・思考し、そしてパンフなどを作成していた。高校3年の夏休みにはクラブで許可をとり、自衛隊員の案内で自衛隊装備の視察にも出かけていた。高校3年の秋ですら京都での集会に泊まりがけで参加していたくらいである。


 そのことを考えると、高校時代は生きた勉強をしていた。勉学を英・数・理・社・国の高校教科書に限定する方が間違いであり、民主主義・社会関連実地見学・地域の人達の「草の根の歴史」の伝え聞き、全国高校生集会での民主主義・社会・差別に関する討論会・研究会、地域を回っての啓蒙(けいもう)活動と高校一年から三年まで一貫しておこなっていた。


 但(ただ)し、それらを入試で勉学と評価してくれない大学に問題があっただけである。居直りと思われようとはっきり記せば、本格的勉学をしたかどうかをきっちり評価しない大学入試に問題があり、私の方の勉学問題ではない。英・数・理・社・国の高校教科書に限定し学力評価をする方がおかしく、かつ正確な能力・学力評価はそれではできない。


 ※注1)この頃知り合った農林高校等の職業高校の何人かは、俗に言う偏差値など高くはないが、決して頭が悪い訳でもなければ、授業態度が悪い訳でもない。逆ですらある。もっと単刀直入に言えば、全員頭は良く、思考力もあり、そして一定の人が大学に進学したが、偏差値の低い大学に進学したと思うが、私の高校の国公立大学に進学した生徒と全く能力に差異はない。ある面では遙(はる)かに上ですらある。


 こうしたことを記したのは、最近、この短大学生の乱れた授業態度を見ていて、幾つもの疑問があるからである。一般に偏差値の低い大学の学生はつけあがり、礼儀が悪く、ゼミや少人数の語学の授業ですら社会常識がない、という発想はどこからでたのであろうか。あれはエリート(秀才)の思い上がりから考え出された状況にしか思えない。


 先の職業科の仲間を例外としてすら、かつての問題児に近い経験者の私から言ってさえ全然ありえないことが多すぎる。中学や高校の俗に言う〝問題児〟については、私自身が該当グループにいたので、その経験からの疑問は後でエッセイ『学校』に記すが、ここでは現実問題として再度疑問を呈す。大学で、偏差値により学生が義理人情にかけたり、つけあがったり、(ゼミや語学においてさえ)社会常識に差異があるという発想はどこからでたのか、聞きたい。
 ※エッセイ「学校」は拙著『旅に心を求めて―不条理編(下)』(2015年、Kindle版)に収録している。

 


 それでも最低の受験勉強はこなし関西学院大学などに合格した。夏休みに友達の家が管理する神社にこもり、本堂で勉強した御利益(ごりやく)があったのかもしれない。尤(もっと)も、関学(かんがく)については、田舎の高校にいたため、その存在すら知らず、文系でも選択の仕方次第では国語抜きの社会、数Ⅰ・Ⅱと英語で受験できる珍しい大学のため受験したにすぎなかったのだが。

 そして、大学に入り、それまで本を読まなかった人間が、180度転換し猛烈な勢いで文献を読み続ける日々が始まる。その転機となったのがマルクスとの出会いである。


 それは、マルクスの『賃労働と資本』(*4)という本をノートをとりながら読んでからである。このとき何故(なぜ)、貧乏人はいつまでも貧乏であり、金持ちは急速に金持ちになるのかという理論を知る。難解な言葉で書けば、剰余(じょうよ)価値(かち)論である。

 特に注意してもらいたいのは、超大金持ちの大半が20年くらいでそうなるのである。例えば現在のマイクロソフトのビルゲイツ氏は無一文に近い一介の学生から約20年弱で1兆円(1996年)の資産を築く。日本の松下、安田、三菱も同様である。彼らは、20年くらいの間に無に近い状態から大金持ちどころか超大金持ちになる。これについての法則を知る。


 しかし、この『賃労働と資本』にとりわけ引きつけられたのは、何よりも理論展開が論理的・数学的であると同時に芸術的だったからである。この点がその後のレーニンなどの他の社会主義者と異なる点である。ここから、私の人生を狂わす読書の日々が始まる。正確には、読書したいという願望の日々が始まる。ただ、残念ながら専門の政治学が経済学と異なり、科学的でなく幾(いく)ら読んでも面白(おもしろ)くなく、といって専攻を変更するだけの思い切りもなく、それが後に早稲田大学大学院時代の再々度の落ちこぼれの日々につながる。


 ともかく、大学時代は生活のためのアルバイトなどで読書もできず、大学時代に1年だけ休学(留年)し読書だけの日々を過ごせないかと、しばしば考えるきっかけになったのもこのマルクスとの出会いのせいである。


 結局、休学はしなかったものの、その代わりに教員採用試験準備も就職準備もすべて止(や)め、読書や卒論を書くための試行錯誤にあてた。ともかく、生活費を稼ぐための必要不可欠なバイトや社会活動関連時間以外の全時間を読書に充てた。


 それでも時間がなかったため大学の授業のほとんどは出席しなかった。それは、大学の授業の内容が余りにお粗末であったことも大きな一因である。だが、さぼるといっても、政治学の授業をさぼり、家で同じ政治学の文献を読むこともしばしばあった。だから、正式には私がさぼっているのではなく、教師が授業の準備をさぼっていたといえる。


 勿論、教師の授業がさほど良くなくても、非常に熱心であれば、当然他の条件が許せば出席したであろう。


 もっと単刀直入に言えば大学の教師に無記名のアンケートをとり、(勿論その教師が書いた文献も読むことを前提にし)猛烈な勢いで自宅学習するのと、大学までの通学の時間も考え、そしてその教師の授業に出るのと、大学の成績を無視し、ただ単に純粋に学問に打ち込みたいとすれば、どちらが良いかを問えば何人の教師が「100%自分の授業に出るように」と回答できるであろうか、ということである。

 

 




《◇-5:今後のマルクス》

《◇-5:今後のマルクス》


 ともかく、こうしてマルクスの剰余価値(じょうよかち)論と史的唯物論の授業を駿台において行う。だが、今まで何度も書いたように授業はいきなりはうまくいかないものである。何回も何回も繰り返し、繰り返し、試行錯誤し、手直ししながら発展していく。ともかく、この年は問題はあったものの、駿台生の意表をつく紙芝居から入ったため、一定注目を集めたにすぎなかったかもしれない。

 だが、もう一つ問題があった。政経という科目の問題である。日本史や世界史に比べドラマにしにくいため、また時には数学的になるため相当に教えにくかった。砕(くだ)いて教えて感動が失われれば意味はないし、正面から入り生徒が全く理解できなくても問題である。砕き方に芸術性があれば問題ないが、それはもっと難しい。


 ましてや、この短大では一般教養の英語の教材として作成している。そこで、授業ではマルクスの紹介はマルクスの学問への取り組みに焦点をあてることにする。


 尤(もっと)も、駿台でも1983年頃から、マルクスの学問に取り組む姿を紹介する方にも重点を移していたこともあり、更に逃げでなく、ここに人を引きつける点があるかもしれないと、最近本当に考えてもいる。そこで、第3節My favorite wordsの(A)でマルクスの学問に打ち込む姿について、(B)で剰余価値論、(C)で史的唯物論の英文を入手し次第掲載予定でいる。


 (C)は条件が整えば模造紙・画用紙を使用し、紙芝居風に解説する予定でいる。(A)のマルクスの学問に取り組む姿について、第4節のFurther informationに日本語で関連部分を掲載しているので読んでもらいたい。ただ、今回の主題なので、ここでも以下簡単にマルクスと学問について私の思う所を記す。



《◇-6:マルクスと学問》

 《◇-6:マルクスと学問

 
 マルクスは、第4節Further informationに掲載した資料の如く、極度の貧困の中で食糧も十分でなく、空腹を様々なもので紛らわし、時には子や妻の病気の際に医療費もないという状況の中で、相当長期に亘(わた)り学問を続けていた。


 晩年成功し大量の収入を得るという考えもなく、実際得てもいない。何故、マルクスがこうした状況下で学問を続けられたのか。しかも、朝から晩まで死ぬまでの50年以上に亘(わた)り。学問とは何か!


 多くの人が、「マルクスは、社会のため、人のため、人間解放のためを考えていたからである」、というであろう。だが、それだけであろうか。今日、人間解放を唱(とな)えている人のほとんどが、そうした学問を、こうした極貧状況の中で全生涯に亘(わた)り、朝から晩までしているという事例を、私はほとんど知らない。私はこれについて次の二つのことを指摘したい。

 


 一つは学問とは苦行の過程でもなく、頭の良い人だけができるものでもなく、麻薬(まやく)のようにやりだしたらやめられないものなのである。極論すれば〝遊び〟と同一である。幾たびの落ちこぼれ人生を歩んできた、張本人の私が言うのだから間違いない。


 だから、学校の授業が本来のあるべき姿になれば、落ちこぼれの問題も、学校を取り巻く様々な問題も姿を消し、社会そのものすら変わるであろうと、私は確信している。だが、授業や勉強という場での学問はそれでも良いが、それだけではマルクスがあそこまで学問に没頭したことは説明できない。では、マルクスが全てを捨てて何故学問に没頭できたのか。この点について、私自身の問題提起をしたい。


 まず考えてもらいたいことは、本当の学問に出会ったならば、後は一直線に学問に没頭できるか、ということである。私自身振をり返れば、マルクスとの出会いから学問に没頭しようと考えたが、実際には15年以上に亘(わた)り多くの時間をロスし、結果として落ちこぼれであり続けた。中学校時代から換算すれば29年のうち21年以上の落ちこぼれ人生を経験したともいえる


 過去、「生物に没頭しアメーバの研究を続けている研究者が毎日非常に楽しい思いをし、苦痛を苦痛とも思わず研究をしている」という話や類似の話を聞いたことがある。それは学問は麻薬のようなものである、と先に書いたことと良く似ている。


 確かに、同じことのようだが、私の人生を振り返れば実はこの二つの間には大きな相違があると思う。そのことを説明しながらマルクスの解説とさらなる問題提起をしたい。


 勿論、誰しも学問と出会い、一定のレベルでやる場合は楽しいものである。だが、それを職業として行う場合は違う。それを教えてくれたのがやはりマルクスである。すなわち自分と合致するものを選ばなければならないということである。自分を選ぶということである。


 私自身のことをもう一度振り返ろう。マルクスと18歳のときに出会い、学問に溺(おぼ)れたが、その後どれほど非能率的なことをし、どれほど行き詰まり、どれほど非生産的な時間を過ごし、どれほど時間と金を無駄にしたであろうか。10年以上も。


 つまり、学問と合致するという場合、学問一般ではなく、どの学問と・どういう形で、が重要である。同じく教師という職業と合致するといっても、どの・どこの・どういう教壇かが問題である。野球に例えれば野球に合致するのではなく、どこで・どの場で・どのポジションで野球をするかということが重要なのである。


 それが似ていても、わずかな違いがあれば、時には全く違う職業につく以上の苦痛と無能力さと時間のロスを生み出すことになる。だから、自分を選ぶということは長い月日を要する。それでも、後に述べるように、その必要性を私は痛感する。


 私はマルクスに出会い、学問に埋没しようと考えたものの、18歳から政治学に固執し敗北し続け、23歳からは研究者に固執し、落ちこぼれ続け、更にその途中やその後幾(いく)つかの教壇で無能力さ及び生産的でない時間をどれほど費やしたであろうか。そして、30歳頃に駿台という場に出会い、初めて自分を選ぶことができかけた。すなわち〝授業屋〟としての道を。二度目の出産であったかもしれない。私の欲しい一定の条件が当初の駿台にはあった。


 全てが変わるとまで言えるような大きな変化がここから生まれた。だから、ここでは負けまいとすることは相当大変であるにもかかわらず、苦闘し続けても、精神の奥深くでは余り苦しくなかった。模索し続けたにもかかわらず。徹夜が続いたにもかかわらず。今から考えればあれだけやって大した金にもならなかったにもかかわらず。とはいえ、交通機関は新幹線グリーン車、ホテル駿台持ち、1年目の試験採用期間該当の1982年度を除けば岡短や女子校とは比較にならぬ収入もあった。


 だが、もし真備高校にあのままいたら、善(よ)し悪(あ)しは別にして、今の自分も、今後の自分も、授業も、もはや100%存在することはなかったことは事実である。他の中学や高校の教壇でも同様である。あるいは、万一、ストレートに大学講師や教授になっていたとしても、地位は得ても生産的でないことをし続け、どのくらいの時間を無駄にすることになったであろうか。それ以上に、有意義なものは何も生み出せなかったであろう。


 そして授業というものを一生知らずに終わったであろう。ともかく、自分と一定合致する場をみつけたので何をしてもそれが自然であった。これが合致するということである。マルクスは彼の学問の世界(科学的社会主義)にそうした合致するものを見いだしたのではなかろうか。それが3章の「ジョニーは戦場へ行った」で書いたように自分を選ぶということである。



 朝日新聞の1996年3月の特集で、ある記者が現在の「勝たなあかん」という風潮について疑問を呈(てい)していた。幾つかの点で共鳴(きょうめい)したが、同時に私は次のようにも思う。


 人間には努力さえし続ければ、誰でも必ず自分が勝ち続け、見方によれば常にナンバーワンになり続けられる場がこの世に一個所は存在しているのではなかろうか、と。世界の全人間にとって誰一人として例外なく。その場を見つけること、それが自分を選ぶということである。その場を見つけたとき、誰も負けないのではなかろうか。
 

 マルクスは、自らの学問(科学的社会主義)の中に、自分の合致するものを見つけたのであり、それ故(ゆえ)にあそこまでやれたのだ、と。そして、それ以上に奇跡の仕事を成し遂げたのだ、と。この意味をここで取り上げたかったのである。


 重ねて言えば、マルクスが自分と合致する場に出合ったということが、あの貧困の中で生涯学問を続けることのできた原因であった、と私は思う。


 合致する場で、初めて、人は人間の能力の限界を超越する仕事や奇跡すら起こすことができるのではあるまいか。マルクスは数学にもたけていたというが、それは所詮(しょせん)合致した科学的社会主義研究の副産物にすぎない。万一、マルクスが数学を主体に研究していれば、優れた数学者で終わるくらいで奇跡などおこさなかったであろう。それどころか、貧困の中で数学をし続けることなどあり得なかったであろう。

 

 同じく、先に例を出した生物の教授が一日中学問に没頭しておりそれが楽しみであり……と言っていたが、彼が政治学に固執していたら、あるいは金八先生の如く中学校で生活指導に負われていたならば。善(よ)し悪(あ)しではなく、どうなっていたか。書くまでもない。逆に、金八先生が東大の教壇に立ち、心より本当の責任を果たそうと考えれば、本人が苦しむだけであり、予備校の教壇に立てば万一うまくいっても社会的損失かもしれない。やはり、金八先生の合致する教壇は特定の学校の教壇でしかない。彼はやはり中学校の教壇などで、多くの人の憧(あこが)れの教師となるべきである。


 奇跡の仕事などする必要がないという人ですら、自分が合致する場に行けば、したくないと思っていても無意識の内に準備をしてしまい、する気がなくても自分の全時間・全財産を投入してしまい、する気がなくても奇跡の仕事をしてしまうのではあるまいか。それが自分を選ぶということである。

 

 そして、私も同様の経験をした。ただ違うのは、私の場合は、奇跡を起こすどころか、軌道に乗りかける兆(きざ)しが見え始めた、事実上の出発点である駿台3年目(1984年度)後半より、様々なトラブル・妨害・あらゆる手段により、何もできなくなる状態に追い込まれてしまったことである。だから、変化も没頭も経験したが、芸術としての授業は全く未遂のまま今日に至ってしまった。だが、求めるものを知ることはできた。
 ※詳細は、拙著『閉じた窓にも日は昇る・(上巻)』Kindle版、2016年参照。

 今、私は自由に選択できれば、自分と合致する教壇を主戦場としなければならない。そして、一時でも良いので自分の作った教材の全部でなくても、せめて大半でも、使用できる場で授業をしてみたいと思わないはずがない。また、構想を相当以前から持っているが、現在種々の事情で全く作成できない教材を作れる場に立ちたいとも思う。


 駿台という場が良かったか悪かったかということではなく、最初の頃は少なくとも私と一定合致し、私が大きく変わったということである。現在の授業の事実上の出発点となった。能力がなくても合致したら強いものである。


 私の経験から言って、合致する場とそれと似ている場では全く意味が違う。似ている場であるだけに、自分の能力が発揮できないときは更に苦痛となるか、あるいは闘う気すらおこらない。いろいろなプロの分野の人なら私の言っている意味は分かるであろう。今後、メインとする教壇をどこにするか分からないが、自分が合致する場でなければならない。そのときに初めて自分の全ての能力が開花し・生かされ、苦痛も感じず、自分の全てをそこに投入できるであろう。そのとき初めて芸術としての授業は可能となる。


 そして、そのときから本当の私の授業と現在の授業への積極的・建設的授業批判も開始することとなる。何故、今日の授業批判をしなければならないのかは、第4節FURTHER INFORMATIONの最後を参照してもらいたい。さらに、4章の「狼に育てられた子」をもう一度読んでもらえれば、その必要性を理解してもらえると考えている。強(し)いて言えばそれが私の使命であるかもしれない。




 

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日時 内容 場所
2016年9月22日~10月20日頃まで 第5章イェーリング第1節掲載開始  
2017年1月26日(木曜)~2月22日まで 第6章マルクス第1節(続き◇4~◇6)掲載開始  
2017年月日(木)~月日頃まで 第7章ユージン・スミス第1節掲載開始  
2017年月日(木)~月中旬頃まで 第二部補章―1・